外国為替証拠金取引で損失が生じた場合にも決済の履行が確保されるように、取引前に差し入れる担保のことです。 商品先物取引、東海道を西進する福島正則、池田輝政ら豊臣恩顧の武将を中心とした先発組が、8月22日、河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信(三法師)が城主の岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。岐阜城が落ちたのを知ると、家康は9月1日に約3万3千の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。 宇都宮に残った家康の三男徳川秀忠は8月に約3万8千を率い、中山道を進んだが、途中、真田昌幸の籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わなかった[7]。 家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に赤坂の岡山に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出し、東軍の一部を誘い出すと、これを散々に打ち破った。これを杭瀬川の戦いという。 9月14日夜、家康は赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これにつられるように、大垣城に篭っていた石田三成らは関ヶ原へ転進した。 関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)拡大9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧日本陸軍の参謀本部が編纂した日本戦史関ヶ原の役によれば、東軍7万5千、西軍10万、合わせて17万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結したことになる。 投資信託・近畿以西の豊臣恩顧大名と軍監(目付)として井伊直政・本多忠勝を先発隊としている。後日出撃した家康本隊は大名級がほぼ秀忠隊に配属されており、32,700の軍勢の構成は旗本が多く占めている[4]。井伊直政は3,600程度の軍勢を連れていたが出陣前に病に倒れ、本多忠勝が臨時にこれと代わった為に忠勝隊は小姓・足軽ら400程度の軍勢であった(本多家の本隊は忠政とともに秀忠隊に配属。また、病の癒えた直政も後を追っている)。 西軍方は三成の拠る「笹尾山」、宇喜多秀家の拠る「天満山」、小早川秀秋の拠る「松尾山」、そして毛利秀元が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷く。明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。 関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならない。そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。 濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児才蔵が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。 外貨預金、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う― 三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万6千ほどながら、戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊・その背後にいる栗原山の長宗我部隊計2万7千が東軍の側面と背後を衝けば西軍の勝利は確定的となるはずであった。 CFD、島津は応援を拒否。また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた(いわゆる宰相殿の空弁当)。 正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降りる[8]。 不動産投資において、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、西軍は総崩れとなる。こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の敵中突破退却戦が開始される。島津義弘隊1千5百が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は島津豊久や阿多盛淳(長寿院盛淳)、肝付兼護を犠牲にしわずか80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛惇は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。他の西軍部隊は壊滅あるいは逃走した。