ポジションの残高を報告するために業者が顧客に交付する書面です。 外国為替のほとんどの大名を徳川派(東軍)と反徳川派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたと考えられてきたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれている。なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。 よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、下記するとおり西軍総大将は毛利輝元であり、副将は宇喜多秀家である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。また、関ヶ原において戦闘の中心となった東軍の武将のほとんどは豊臣恩顧の武将であった。 FXを達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派(文治派とも呼ばれる)の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった。[1] 家康は前田利家の嫡男の前田利長を首謀者とする家康暗殺計画が存在したとして、容疑者として五奉行の浅野長政や大野治長、土方雄久らに蟄居などの処分を下す。さらに前田利長に対する謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画した。利長は実母の芳春院を人質として下すなどして恭順的な態度を示し、前田家の地位は保全された。 慶長5年(1600年)になると、家康は上杉氏の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として会津の上杉景勝に対して軍備増強を非難し(参考:直江状)、上洛して釈明するよう警告を出す。景勝の重臣である直江兼続は家康の警告を無視し、豊臣軍による上杉征伐が開始された。家康を総大将として、豊臣大名の多くがそれに従軍し上杉の領地である会津に向けて行軍を開始する。 失脚していた石田三成は大谷吉継、五奉行の増田長盛、毛利氏の使僧で伊予国の大名でもある安国寺恵瓊らと共謀し、五大老の毛利輝元を擁立して西軍を組織し、諸大名の妻子を人質として挙兵する。しかし、その最中に、細川忠興の正室である細川ガラシャは、石田方の人質になるのを拒み、キリシタンのため自害が禁じられていることから、忠興の家臣に槍で胸を突かせて死亡する。 家康は伏見城に残した家臣の鳥居元忠の報告で下野国小山(栃木県)において、三成挙兵を察知する。家康は直ちに行軍を止め、従う大名らに今後の動向を伺った(小山評定)。 上杉討伐は中止され、真田昌幸や田丸忠昌らの大名は家康から離反することになるが、大部分は引き続き家康に従うことを決め、軍は西へと上ることになった。 FXの上杉征伐は石田三成を挙兵させるために行った策略だったという見方もある。畿内に隙を見せ、三成の挙兵を誘ったのである。この説に従えば、鳥居元忠は家康側が三成を攻撃する口実を作るため、死を必至とする任務についたことになる。 7月25日に行われた小山評定における重大な問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちがどのような態度をとるかであった。三成挙兵の方は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。こうしたなか、黒田長政は福島正則に秀頼には累が及ばないことを説明し、旗幟を鮮明にするよう説得した。 評定では、山岡道阿弥・岡野江雪から情勢の説明と妻子が人質になっているため、進退は各自の自由であるとの家康の意向が伝えられた。すると福島が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明。黒田・徳永寿昌がこれに続き、豊臣恩顧の武将らは家康に従うことを誓約した。 つづいて山内一豊が自らの居城掛川城の提供を申し出、他の武将もこれにならった。この案は堀尾忠氏(一豊の盟友堀尾吉晴[2]の子)と事前に協議したもの[3]で、東海道筋の諸城を確保したことで東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。 関ヶ原決戦前における動向を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切り参照。 7月1日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い、これに高台院は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。(このことから、秀家が先に決起し、三成はあとから挙兵を決意したという見解がある)。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を凝らし、毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。逆に佐竹義宣は三成よりだったが父義重の反対に遭って中立を余儀なくされた。 7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である鳥居元忠が預かる伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城は宇喜多秀家、島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した(伏見城の戦い)。その後、丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。 FXは、家康が背後(上杉・佐竹)への危険から江戸に留まり、藤堂高虎、黒田長政らを使って、諸将に書状をしたため、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家と所領の安堵を、小早川秀秋に北政所への忠節を説いて[6]、内応を約束させる。